ポラリスの向こう

日本の、世界の、見たこと、感じたこと

桜前線の途中

単純なことを単純に受け入れられず、複雑化させていくことで心の中の渦はどんどん深くなっていく。

 

底が見えないのドロップオフの海のよう。底が見えればと思う裏腹、見たくない気持ちが勝り、目を凝らせば見えそうな海底の地形を見ようとさえしたことはない。

 

大きく覆いかぶさる波を正面で受けるが、踏ん張る力はなく幾度となく倒れこむ。差し出される手を横目に、鋭い岩に手のひらをつき立ち上がろうとし、また傷の数が増えていく。

 

 

トンネルばかりの車窓に、所々桜が映し出される。いつまで経っても春は終わらない。桜前線に沿って帰宅する私にとって、春は人より長いのだ。

 

最寄りの駅で電車を降りる。もうすぐGWだというのに、まだまだ肌寒い。

 

お母さんが乗った緑の軽自動車が徐々にスピードを落とし、目の前で止まった。車が完全に止まる前に助手席のドアを開く。

 

「沙優(さゆ)ちゃん、おかえりなさい。」

「ただいま。寒いから暖房つけてよ。凍え死にそう。」

「この位の寒さでは死にません。すぐに着くわ。帰ってご飯にしましょう。」

 

お母さんは暖房をつけてくれなかった。第一、私だってそこまで寒くない。ただ、何か言いたいだけなのだ。そういうお年頃なのだ。

 

「川沿いの桜、少しずつ咲いてきたよ。そろそろ五分咲き位かな?週末の部活帰りにでもお花見しようか。きっと八分咲き位にはなるんじゃないかな。天気も良さそうだし、昼間のうちに、ね?」

 

川沿いの桜とは、家から徒歩五分程で着く川辺の桜を指す。八分咲きより五分咲きの方が、昼間の桜よりも夜桜の方が好きだと、何度言えば分かるのだろう。

 

「却下。部活後は疲れてるので。但し、今夜であれば行ってあげても良いよ。」

「ご飯食べて身体しっかり暖めてから行こうか。ちょっと遅くなるけどお父さんも誘う?」

「却下。」

「はいはい。」

 

駅前の大通りを過ぎ、家に向かう小道へと入る為に、車が大きく右カーブした。リュックの中の大量の教科書が左にずれていくのを、太ももで感じた。

 

「高校の近くの桜は?もう散ってるの?」

「ほぼね。昨日雨が降ったでしょ?それでだいぶ散った。雨で出来た水溜りに、散った桜が浮かんでるんだけど、全然綺麗じゃないの。木に付いている時はあんなにピンクで綺麗なのに。何でか知ってる?」

「何でだろうね。一箇所にまとまって重なり合わないと、綺麗に見えないのかもね。」

「沙優には、もうピークは終わりですって、言われてるような気がして。」

「もしくは、来年の準備に入っているのかも。」

 

車庫に入れる為にスピードが徐々に落ちていく。運転したことがないから分からないが、うちの車庫は随分入れにくそうに見える。

 

「一度落ちた桜の花はもう咲きません。」

やっとのことで、車が車庫に入った。車が車庫に入り始める頃から、私の左手はドアの取っ手にある。準備が整うのを待てず、すぐに行動に移してしまうのは小さい頃からの癖だ。待てないのだ。

 

家に入り、階段を駆け上がり自分の部屋のドアを乱暴に開けた。ベッドの上にリュックから出した教科書やノートを無造作に広げた。夕飯までまだ少し時間があるので、宿題を進めることにした。

 

世界史の時間に配布されたプリントには、中世東ヨーロッパに関する問題が二十問印字されている。

 

『当時の時代背景とを考え、人々の気持ちを想像しながら回答しなさい』といういらない但し書きと一緒に。

 

ビザンツ帝国コンスタンティノープル、レオン3世、オスマン帝国コンスタンティヌス11世、メフメト2世、どうしたらカタカナだらけの彼らの気持ちを想像することが出来るのだろうか。

 

歴史の資料集をペラペラとめくり、該当箇所を見つけ回答した。明日の授業であてられても良いように、付箋も忘れずに付けておいた。リュックから出し無造作に置いた大量の教科書は、ベッドの上で崩れていた。必要最低限のものを持ち帰っているつもりなのだが、結局使う教科書や資料集は半分以下だ。毎日のようにこの要領の悪さにイラつきながも、今日ならきっと出来る!という自分への期待を捨てきれず、大量に持ち帰ってきてしまう。

  

「沙優ちゃん、そろそろご飯準備出来るよ。」

「分かってるー。」

 

二階の自分の部屋から、お母さんに聞こえるか聞こえないかの声量で返事をする。世界史の二十問は終わったが、国語の宿題がまだ残っていた。解く気がないながらに一応プリントを開いてみた。梶井基次郎の『檸檬』が印字されていた。

 

問1、線aの時の「私」の気持ちとは。

 

中世ヨーロッパに心を馳せた次は、昭和時代の誰かも知らぬ「私」か。平成の現代を生きる女子高生には、この移り変わりはあまりにも乱雑に感じられ、ついていく事が出来なかった。まぁ、国語の授業は明後日だし、明日やればいいだろう。コンスタンティヌス11世の本人かも危うい肖像画が頭から離れぬまま、階段を駆け下りリビングへ向かった。

 

夕食はシチューだった。

「いただきます。」

と、食事の準備ができる前から、私の夕飯は始まる。待てないのだ。フランスパンの耳の部分をシチューにつける。パンから滴り落ちるシチューを舌でキャッチするようにして食べた。

「スプーンとお皿を使いなさい。」

当然の事ながら、お行儀の悪いこの食べ方をお母さんは好まない。

「洗い物をを増やさないという、娘の気遣いです。」

もうひとすくいしたシチューは、舌の上に落ちることなく制服のスカートの上に落ちた。

「だから言ったじゃない。」

お母さんは小さくため息をつき、濡れた布巾をキッチンから持ってきた。

「お母さんが話しかけるから。」

私はもう一度、パンをシチューに浸した。

「このスカート、ちょうど洗濯に出そうと思ってたから、その思いがシチューに通じたんだと思いまーす。」

「はいはい。」

 

お母さんが落ち着いて食べ始める頃、私は既に食べ終わっていた。

食堂のテーブルから見えるテレビが、7時のニュースを始めたので、リビングのソファに移った。7時のニュースでは就職率の低下、就職後3年以内の離職率の上昇に関し、キャスターが持論を述べていた。なんでも、自分のやりたいことと、仕事内容の一致が難しい時代らしい。

「仕事があることに対する感謝よりも、自己満足の方が大切なのですね。今の若者にとっては。」

「想像していた仕事と違った、なんて、就活時の調査不足でしょう。それにすぐにやりたいことがすぐ出来るなんて、そんな虫の良い話滅多にないですよ。」等と、言いたい放題だ。

 

小学生の頃から「自分」や「個性」や「アイデンティティ」を重んじろと言われてきた。学校は、確固とした答えを教える代わりに「自分で考えなさい」と言い、最終的には「答えは皆違う」と丸投げしてきた。そのわりに社会に出た瞬間自分の物差しで価値を計り始めると批判されるのか。そりゃないぜ、とスルメイカを噛み砕き麦茶を一気飲みした。

 

そういや、志望学部と希望大学の提出は今週末が締め切りだ。志望という記載はあるが、得意分野が受験項目にある学科で学部をが決まり、成績と偏差値で大学が決まるようなもので、実際志望要素などどこにもない。

 

保護者の記入欄もあったけな。まぁ、木曜日辺りにお母さんに渡して書いてもらえば良いか。

 

お母さんの夕食がそろそろ終わりそうなので、テレビを消したリモコンをソファに放り投げ、お花見の為に制服から着替える事にした。 夜とは言え、近所であることには変わり無い。同級生に会う可能性だってあるのだ。スカートを履くか、ジーンズで行くか、スニーカーかショートブーツか、悩みに悩む。

悩み抜いた結果、スキニージーンズとショートブーツで行くことに決めた。上着は、茶色の薄手のジャンバーにした。

 

「お母さーん、早く行こうよ。」

玄関の前で呼んだ。

「エプロン外したら行くから。」

「良いですね、準備が簡単で。」

ジャンパーのボタンをつけ間違えていることに気づき、玄関の鏡を見ながら直す。 

「川沿いに行くだけよ?コンビニ行くよりも誰かに会う確率少ないじゃない。」

「確率の問題ではないの。可能性が有るか無いかの問題なの。分かる?」

「はいはい」

お母さんの「はいはい」が出た時は、これ以上その話題をしても無駄というサインだ。

夕飯の洗い物が終わり、お母さんがエプロンを外した。出発する準備が整ったということだ。

 

玄関を出るなり、ひやっとした空気が二人を包む。

「さむ。」

思わず声が出てしまった。

「ジャケット変えて来たら?」

玄関のドアの鍵をかける手を一度止めて、お母さんが聞いた。

「さむ、って言ってみただけ。」

私は、ジャケットのファスナーを首の上までしっかり上げ、ポケットに手を突っ込んだ。

 

毎年思うのだが、この寒い中よく桜も咲く気になるな、と。もし私が桜だったら、もう少し咲のを待つ。長野であれば、GW明け位がちょうどいいだろう。昼間開いたのを夜になっても後悔しないくらいの気温にはなる。

しかし、物事というのは準備万端になる前に訪れるもので、桜も例外ではないのだろう。そもそも、準備万端を待っていたら一生咲き時など来ない気もしてきた。

「あ、ケータイ忘れた。」

お母さんの足が一瞬玄関の方を向いた。

「いいよお母さん、どうせ誰からも連絡も来ないし、大した写真も撮れないんだから。」

「そうね。」

そう、準備万端なんかじゃなくても、どうにかなるもんだ。

 

川辺へと続く道に曲がる交差点の街灯が、チカチカと点滅している。そういえば、一昨日からこの状態だ。誰かが電灯を変えない限り、近々ブラッアウトするだろう。しかし、そんなことは私には関係がないし、この街灯がなくなっても大して困る事はない。

夜空には珍しく満点の星が広がっていた。北斗七星がひときわ目立ち、輝いていた。

「お母さん4月生まれだから、牡牛座だよね。どこにあるんだろう。わかる?」

4月から5月にかけての星座である牡牛座を探しながら上を見上げた。

「ちょうど地球の反対側かしらね。」

「え?春の星座なのに見えないの?」

「やだ沙優ちゃん、その時に見える星で星座が決まっていると思っているの?」

「違うの?」

お母さんの方を向いた。お母さんはたまに見せるドヤ顔で説明しだした。

「生まれた時に、太陽がどの星座の方向にあるかを基準として誕生時の星座が決まっているの。だから、その時期に見えやすい星座で決めたわけではないわ。むしろその星座は見えないわね。」

牡牛座を探すのを辞めた。

「第一沙優ちゃん、牡牛座の形知ってるの?」 

「知らないけど、見れば分かるかなって。牛みたいな形してるんでしょ?」

「正解。」

「お母さんは分かるの?」

「分かるわよ。秋や冬によく見える星座でオリオン座の近くにあるのよ。オリオン座の三ツ星から西の方に辿っていくと、小さいV字の星たちがあるの。それが、牛の角の部分よ。冬になったら一緒に見ようか。沙優の部屋から見えるはずよ。」

「なんでそんなこと知ってるの?」

「若い頃にお父さんから教えてもらったの。」

「デート中?気持ち悪っ。」

私の言葉を無視するかのように、お母さんは話を続けた。

「皮肉な話だと思わない?太陽の一番近くにいて輝けそうなものなのに、見えないなんて。暗闇の方がより輝いて見えるのよ。太陽に近づきすぎちゃいけないってことよ。」

「意味わかんない。」

太陽から一番離れて輝く、北斗七星を見上げながら歩いた。

「沙優ちゃん、前見て歩きなさい。転ぶわよ。」

「はーい。」

 

お母さんの言う皮肉という言葉はよく分からないが、今見えているもの全てが正しく見え、そして全てを疑いたくなるような気がした。真実ではなくて、正しいことを望もうとするあまり、自分本位になりすぎているのではないかと、慌ててブレーキをかける。

太陽の一番近くにいる牡牛座は誰も見ていない空でどんな風に輝いているのだろう。もう一度、一瞬だけ、北斗七星を見上げた。

 

路地を抜け、川辺に着いた。

煌々光る桜のライトアップと反比例するように、花見の人は一人もいなかった。二人だけの為に設置されたライトアップのように思え、気分がよかった。

「湖の方まで歩こうか。」

「はーい。」

一歩先を進むお母さんに追いつくように、小走りで川辺を進んだ。私だけ持ってきたスマホで夜桜を撮る。

「夜桜は難しいのよ。心に刻みなさい。」

お母さんのこの言葉、去年も聞いた気がする。いや、確かに聞いた。

 

毎年決まって見に来る夜桜は、一年の成長と停滞を考えさせられた。

高校2年から3年というのは、制服が変わるわけでもなく、後輩から先輩になるわけでもなく、数字の2から3に変わるだけであって、顕著な変化を探すのが難しかった。クラスも同じ、友達も同じ、1年前と目標も同じ。本来であれば着実に目標に近づいているべきなのに、今年は遠のいて感じた。

時系列に沿って物事を考える事で、物事を整理しているはずなのにそれが出来ない。過去と現在と未来を考える毎に、頭がパンクしそうになる。夜桜を見る前からこの支離滅裂とした感覚は始まっており、去年と何ら変わらない夜桜を見ることで、余計にその感覚が膨張を続けた。

 

教科書で読むこと、テレビで聞くこと、人から聞くことで、過去と現実と未来が激しく交差し、処理が追いつかない。

主人公に心を傾けて”“その時代にいるつもりになって”“現実から目を背けないで”“将来のことを考えて

どこにフォーカスを当てたらいいのよ。考えさせないで、テストみたいに答えを決めてくれればいいのに。已に大人になったあなた立ちは一体どう乗り越えたのよ。。

身勝手で言いたい放題の大人たちへ、恨みという名の嫉妬が募る。

 

桜前線が山梨から長野へと徐々に移り変わっていくのに、私はずっとそれを追い続けているだけなのだ。待ち望んでいた季節がすぐに終わってしまうのなら、いっそ来なくてもいい。満開の桜をまぶたの裏に浮かべ、素早く目を見開く。目の前にはまだ五分咲きの桜が広がっており、若干ではあるが安堵感をもたらした。

 

「お母さん、もう帰ろう。」

湖までの道はまだ半分も来ていない。

「全然咲いてないし。このブーツ、ちょっと足に合わないみたいだし。」

お母さんは「え?」と振り返った。

「もう少し歩こうよ。せっかく来たんだし。」

そう、せっかく来たのだ。私の一番好きな咲き具合の時に、私の一番好きな時間に。だからこそ、置いてけぼりの自分に虚しさが募るのだ。

「足が痛くなったら、おんぶしてあげるから。もう少し歩こう。せっかく来たんだから。」

お母さんは、せっかく来たんだからというフレーズを繰り返した。

そんなこと、2回も言われなくても分かってる。

そして立ち止まる気配を見せずに、お母さんは私の前を歩き続けた。 

「お母さん。」

一歩後ろから、呼び掛けた。

「もう、おんぶしてほしいの?」

「おんぶなんて出来ないくせに。」

「沙優ちゃん、最近太ったもんね。」

「うるさい」

少し前を歩くお母さんに追いつく為、小走りをした。

「お母さんは、どんな高校生だったの?当時の将来の夢は?その頃に戻りたいと思う?」

隣を歩き、お母さんの顔を覗き込みながら聞いた。

「そうね。沙優ちゃんみたいな可愛い高校生で、沙優ちゃんみたいな子の親になりたくて、でも、沙優ちゃんがいるこの時代から、沙優ちゃんがいない過去に戻りたいって思った事はないわ。」

むっとして、お母さんを睨みつけた。

「ねえ、真剣に答えてよ。」

「真剣よ。」

「お母さん前に、図書館の先生になりたいって言ってたもん。親になっちゃったから、図書館の先生を諦めたんでしょ?現実を正当化するような事言わないでよ。」

「司書になりたかったのも本当だし、親になって諦めた事なんて一つもない。司書に関して言えば、今だってなりたいわ。それに、正当化もしてない。」

一瞬強い風が吹き、五分咲きの桜の枝を小刻みに揺らした。

「自分のやりたい事を叶えられる人は一握りって高校の先生が言ってたもん。志望校にだって、行ける人は限られてるって。お母さんはその幸せな一握りなの?精一杯やれば後悔もないしそれがその人にとってもベストなんだって先生言ってたけど・・・でも、私はそんな風に《結果これでよかった》なんて無理矢理現実を正当化したくないの。なのに、成績だけじゃなくて、最近感情までここにあらずっていうか、追いついていけなくて。もうぐちゃぐちゃで。」

これ以上言ったら何故か涙が出てきそうだった。

「無理矢理正当化なんて、してないよ。心底これで良かったと思ってる。もし沙優ちゃんが今後、何か上手くいなかったとして、その事実を無理矢理正当化するようなことがあったら、そん事実放り投げてまたチャレンジすれば良いじゃない。」

「チャレンジって、そんな簡単に。」 

「簡単ではないけど、意外と可能よ?親だからとか、大人だからとか、そんな目線で言ってるんじゃないけどね、今の沙優にとってはすごく重要なことでも、いつか振り返るとそうでも無かったと思う日が来るのよ。」

「お母さんにとっては、どうでも良いかもしれないけど。」

「どうでも良いなんて思ってない。一つ一つすごく重要よ。でも、たいていのことが挽回可能っていうか、どうにでもなるんだってこと。」

まだ五部咲きの桜の木から、一枚の花びらが風にのって空高く散った。その一枚の花びらを、私は見えなくなるまで目で追った。

「一つ一つ向き合って、自分なりの答えを出すの。違ったらまた変えればいい。そんな沙優ちゃんを見るのが、楽しくて仕方ないわ。必要なら、いつでも手を貸すわ。」

お母さんは、私の頭に手をあてた。少し背伸びをしながら。二人だけの為に設置されたライトアップはお母さんの顔を照らし出し、染め忘れている白髪の存在感が増した。

「お母さんって、たまに偉そうなこと言うのね。たかが三十年多く生きてるだけで。世界史の中で三十年なんて一瞬なんだから。ビザンツ帝国なんて八百年続いたのよ?」

「すごいところと比較するわね。そうなの、たかが三十年よ。沙優ちゃん見てると、三十年経っても、高校生が持つ悩みってそう変わらないんだなって思うのよ。」

 

お母さんは急に肩を寄せてきた。冷え切った身体に温もりが触れた。お母さんの髪の毛からはお母さんのシャンプーの匂いがした。中学までは同じシャンプーを使っていたが、今は違うシャンプーを使っている。昔と変わらない懐かしい匂いだ。

「お母さんも、同じような悩みあったの?」

少し恥ずかしくなり、お母さんから離れた。離れてもなお、お母さんの温もりは肩に残っていた。

「私が高校生の時?沙優ちゃんみたいに優秀じゃなかったから、そんなに難しく考えることは出来なかったけど、いくらでもあったわ。」

「例えばどんな?」

「朝起きて前髪が少し跳ねていること、制服の丈が少し短いこと、人より毛深いこと、左目だけたまに一重になること。」

「分かる!」と同意しそうになったが、何となく悔しくて、なるべく興味がなさそうに「ふーん」と言った。なるべく興味がなさそうに。

「今は?一応、親としての悩みもあるわけ?もう私高校生だし、ある程度の事は自分で出来るし、来年の今頃には家を出て自分で生活している予定だけど。まぁ、あくまで予定だけど。」

なるべき目を合わせないように聞いた。こんな娘を持って悩みがないわけない。わがままだし、口が悪いし、成績も落ちているし、お父さんとも最近口をきかないし。

母親に悩みを聞くなんて!聞いてから後悔し、余計に目を合わせられなくなった。

「まだまだだなぁと思って。沙優ちゃんにとって良い親って何だろうって、毎日考えながら過ごしてる。」

お母さんは静かな声で答えた。

 

お母さんの口からネガティブな言葉を聞くのは苦手だった。私にとって母親とは、絶対的に強く優しく決して裏切らない、常にポジティブな存在であった。迷ったり弱音を吐く母親の姿は、私が思ってきた母親という偶像を一気に叩き崩すような衝撃に値する為、目をつむって見ないようにしてきたのだ。

しかし、お花見という二人しかいない空間で、騒音もなく、外部からの邪魔が全くな状況での目の背け方を私は知らなかった。

唯一の桜という存在も、どの花もそっぽを向いて助け舟を出してくれなかった。二人きりにしたその環境は、母親を初めて対等な人間として接させた気がした。

 

沈黙に耐えられなくなり、私は口を開いた。

「私にとって良い親は、黙って汚れた制服を洗ってくれる親。」

「あら、意外と簡単なのね。今回は自分で洗ってもらおうと思ったけど。」

「いえ、お断りします。専業主婦の仕事を全うしてもらいます。」

お母さんと私は、同じペースで歩き始めた。湖まで辿り着いたところで、引き返し始めた。同じペースで、むしろ私がお母さんにペースを合わせながら、それまで歩いてきた川辺を引き返し、歩き続けた。

5部咲きの桜はいつでも見ていられる。この先、咲き乱れる桜を想像することも出来るし、散りゆく桜を目で追う必要もない。落ち着いて見ていられるこの5部咲きの桜が一番好きなのだ。すでに開いている花、まだ蕾の花、今にも開きそうな蕾。多様な桜を見つめるのが好きなの。

 

川辺があと数歩で終わるところで足を止め、パンパンに膨らんだ蕾をじーっと見つめた。

「お母さん、これあとどれくらいで咲くかなあ。今夜中には咲きそうじゃない?今夜はここで咲くまで見てようかな。」

「風邪ひくからダメです。そして、沙優ちゃん、咲く前に飽きるわ。」

「英単語でも覚えながら辛抱強く待つもん。」

「あらそれはいい考えね。」

と言いながら、二人の足は既に帰路に向かっていた。週末にはもうこの川辺の桜たちも満開になり、この桜道も観光客でいっぱいになるのだろう。暖かい日が続けば、来週の今頃には散り始めるかもしれない。そして、また誰もいない川辺に戻る。満開の桜、観光客のピークが過ぎた頃に再来できるような大人になりたい。

「どうせ散るなら、このままで良いのにね。」 

私は、お母さんがかけているスカーフ首からを外して言った。お母さんは寒そうに首を竦めた。お母さんの体温で温まったスカーフは私の首を温めた。

「ずっと蕾なのも可哀そうじゃない。あれ?今夜、咲くのを見守るのはやめたの?」

「お母さんに心配かけないという親孝行を選択しましたぁ。」

「そうですか。それは、それは。」

川辺を降り、線路沿いの一般道を歩き始めた。コンクリートの上では、春先に買ってもらったショートブーツのカツカツという音が良く響いた。

「沙優ちゃんさ」

「なに?」

お母さんの方を向いたその時、一時間に一本の電車が近づく音がした。近づくにつれて、ゴトンゴトンという音は大きくなっていき、お母さんの声を打ち消した。何を言っているかを察する前に、お母さんの口の動きは止まり、笑顔に変わった。電車が通り過ぎた後には、お母さんの笑い声だけが残った。

何を言ったのかは、聞かなかった。

 

 

いつからだろう。沙優の歩くペースの方が早いと感じ始めたのは。背を抜かされた中学3年生くらいからだろうか。

「お母さん、歩くの遅いから先に帰ってるね。」

ポニーテールの頭が私目の前に現れ、歩く度にその髪は揺れた。見覚えのない髪飾りがちらりと見える。

そうか、前より一緒に買い物に行くことも減ったことに気付く。

「気をつけてね。」

少し張って出した声は、沙優に届いただろうか。せっかちで気が強くて意地っ張りで、私の前では一段とわがままだ。そんな沙優の前を、大人だから”“親だからと少し前を歩く習慣もその為の早足も、最近はしなくなった。左右に揺れるその髪を、静かに目で追った。

 

当たり前のように毎年見るこの夜桜も、今年が最後かもしれないと考えるだけで胸が苦しくなった。一定の時の流れを受け入れられず、無理矢理にでも変化を作ってしまうのは私のほうなのだ。沙優はいつだって、華麗に荒波に飲み込まれる。避け方も乗り方も知らないはずなのに。

 

必要以上に大きく腕を振りながら歩く姿は、昔から変わらない。路地に続く曲がり角で沙優の身体がぐらりと傾いた。心臓がどきっとし、とっさに駆け出そうとしたが、そんな必要などなかったみたいだ。沙優は私に振り向きもせずに、両手で大きな丸を作り暗闇に消えていった。

 

路地へと曲がる交差点の街灯は、消えていた。

 

空へ舞い上がる紅葉を見つめて

車、バス、電車、飛行機など乗り物に乗る時、必ず通路側に座る派だ。

窓側に座り綺麗な景色を見たい気持ちは山々なのだが、どうしてもそれが出来ない。

エレベーターや会議室、職場の席順だって同じだ。本当は、窓側に座りぼーっと外を眺めていたいのだが、それは田舎に限られたことで、今私が住んでいる東京では絶対に出来ない。

 

小さな頃から都会に憧れており、大学進学と共に上京してきた。高校からの友達も少なくなく、それに大学の友達が加わり、土地感覚も掴めてきた私にとって、東京以外で就職する選択肢はなかったのだ。

 

前から人混みはきらいだった。

「東京に住んでればすぐに慣れるよ〜」と言われ続けて早7年。慣れる気配はなかった。

「じゃあ長野に戻れば?」と言われるようになって早数年。そう言われるとなんだか寂しくなり、意地でも東京に居座ってやろうじゃないかという気持ちになった。

 

友達もいるし買い物や遊ぶことに事欠かない東京を、なんだかんだ好きなのだ。

離れる気は一切なかった。

 

「ごめん待った?」

友人の果帆が駆け寄ってきた。

「ううん、私が早く来すぎただけ。」

待ち合わせ時間は午後の12時。私はここに、11時には着いていた。

自分で勝手に早く来たのだから、果帆につべこべ言う資格はないが、正直1時間も駅前で待っていれば疲れてしまった。

茉莉花(まりか)どこから歩いてきたの?」

果帆が、マフラーを巻きながら言った。

「4つ隣の駅から。もう少し時間かかるかな?と思ったんだけど、予想よりも早く着いちゃって。」

そう、私は最近、ついに電車に乗ることが億劫になり混み合う路線を避け、徒歩をメインに移動をしているのだ。

「だから、私が茉莉花の最寄りまで行くって言ったじゃん。バカだね。」

「いいよ、果帆の家から遠いじゃない。運動にもなるし、ちょうどいいんだ。」

何がちょうどいいのかは分からないが、そういうことにしておくのだ。

茉莉花、お昼何食べたい?」

「近くにいい感じのお店があるんだ。果帆、オムレツ好き?」

「いいね、そこ行こう。今日、なんかあったかいね。」

そう言って果帆は、先ほど巻いたマフラーを再びほどいた。

 

すぐに物を無くす果帆は、マフラーを自分の鞄にくくりつけ、落とさないようにした。いくつ物を無くしただろうか。手袋、定期入れ、お弁当袋、メガネケース、、、私が知っているのでもこれだけ無くしているのだから実際はこれ以上無くしているのだろう。

「そう言えばね茉莉花、この前傘を忘れたわけよ、電車の中に。おばあちゃんがもう要らないって言ってた傘だから別に良いんだけどさ、一応JRに問い合わせたら、届いてたのよ〜。やっぱり、愛情持って接していれば持ち主のところに戻ってくるのね。って言っても、私の傘ではないけど。」

果帆がいつもの高いテンションでそう言った。

そうなのだ。果帆はいつも物を無くすくせに、必ず無くしたものが戻ってくるという能力を持っているのだ。別に名前を書いているわけでも、特別奇抜な柄のものを使っているというわけではない。だが、不思議なことにいつも戻ってくるのだ。

 

対して、私はよく物を見つける。

その理由は明確で、下を見ながら歩いているからだ。これ以上の理由はない。

下を見て歩くようになるまで気付かなかったが、東京の街には本当に色んなものが落ちている。小銭はしょっちゅうだが、今ではあまり使わないテレフォンカード、Suica、ボールペンやシステム手帳など個人情報満載のものも多い。小銭やボールペンなんかはそのままパクってもバレないだろうが、下を見ながら歩いている私が貰のは筋違いな気がして、律儀に毎回警察に届ける。警察の対応もまちまちだ。感謝されることもあれば、「余計な仕事を増やすなよ」と言いたそうな警察官まで。

私は知ったこっちゃないけど。

 

「果帆、やっぱりさ、今日あったかいからコンビニでお弁当買って公園行こうよ」

オムレツ屋さんまで行く道のりに、大きな交差点と高層マンションが最近できたのを思い出したのだ。選択肢がなければ通るが、果帆から許してくれるはずだ。

「いいよ、ちょうど紅葉が綺麗な時期だし。大賛成。」

果帆はくるっと向きを変えて、コンビニの方向へ歩き出した。

 

紅葉の時期、、、確かに。

徒歩の時間が増えた割には、前や上ではなく下を向いて歩く時間が増えただけなので、季節の移り変わりにすっかり鈍感になっていた。

住宅街に入り少し目線を向けてみると、見事な紅葉が。

 

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「綺麗な赤だね」

果帆に向かって言った。

「そう?だいぶ色あせてると思うけど。」

と果帆は、自分のセーターを見ながら言った。

「違うよ。紅葉だよ。」

果帆はケラケラ笑って、近寄ってきた。

茉莉花知ってる?紅葉と楓って、英語ではメープルで一緒なんだって。」

「へえ、そうなんだ。でも、違うのにね。」

茉莉花、何が違うか分かるの?」

「切れ込みの深さでしょ?これは、深くまで切り込みがあるから紅葉。でも、紅葉をメープルって言うのは知らなかったな。果帆、よく知ってるね。」

「昨日、テレビで見たんだよ。」

果帆は自慢げに言った。

 

果帆に違和感を伝えたのは2ヶ月位前のこと。

「それ、パニック障害的なやつじゃない?」

と果帆には言われた。

私はすぐに否定した。

違和感があるだけで、どうしても耐えきれないとかではないし、自分でハンドルしようと思えば出来るからだ。病院にはもちろん行ってない。

 

飛行機から都会の街を見たり、マンションを見ていたりすると、猛烈な吐き気に襲われることがある。だからと言って吐いたことはない。

 

たくさんの国や街や村があって、たくさんの家族があり、たくさんの人がいるというのに、なぜ私は私なんだろうって。なんであいつでもこいつでもなく、私なんだろうって。江戸時代でも昭和でもなく、これから来る未来でもなく、なんで今なんだろうって。

私という「個」で生まれた「自我」を認識した途端に、吐き気がしてきて、「自我」がどんどんと崩壊していく。

 

2ヶ月前に果帆に話しをした時も、同じ赤いパーカーを着ていた。

茉莉花らしいというか、なるほどね〜。そう言われてみると気持ち悪いね。」

「別にだからどうってこともないんだけどね。仕事中は、その気持ちを封印するのよ。でも、ふっと気が抜けて、20階のビルから下を見下ろすと、うじゃうじゃ人が歩いてるじゃない?もう、ダメなの。」

果帆は赤いパーカーの袖をいじりながら、「うーん」と考え込んだ。

「私があいつだったらなぁとか、そういうこと?」

「それもまた違う。生命の「個」ってニアミスは起こりえないと思うのよ。根本的に。“私があの交差点を渡っていたかもしれない”っていうニアミスはあると思うんだけど、それでも“私”に変わりはないわけで。“私が果帆であったかもしれない”っていうおはありえないんだよね。そしたらもう“私”でなく“果帆”だから。」

「自我の捉え方か。なんか学生時代を思い出すね。」

そう、私と果帆は同じ大学で哲学を学んでいた。

「選択肢があっての“私”ではなく、ノーチョイスの中から“私”がいるのであって、なのに、ノーチョイスからこんなにも多くの人が誕生してるなんて、気持ちが悪い。」

「それを、ある人は“奇跡”と呼ぶよ。」

「ある意味奇跡かもね。奇跡ってのは、常識では考えられない神秘的な出来事だもんね。」

「でも茉莉花は、“奇跡”とは“神秘的”とかそう言った綺麗な美しいものとしては捉えることが出来ないんだ。」

「そう。非常に気持ち悪い。気味が悪い。吐き気がする。」

「難しいことを言ってるように聞こえるけど、当たり前のことっていうか、当たり前のことの方が複雑っていうか、1と2はそう変わらないけど、0と1は全く違うというか、そういうこと?」

「0と1の議論は今はやめようよ。私の頭が今以上に破裂しそう。」

 

高校生の時、0から1が生まれる理論が分からず、それを解決したくて哲学科に入った。果帆と私の間では“0と1議論”と呼ばれ、数年議論を重ねているが、まだ解決には至っていない。はあ、解決していない問題が他にあることを、果帆のせいで思い出してしまった。

 

「とにかく果帆、私は今こういう状態なの。」

「分かった。茉莉花の抱える問題っていうのは、いつも単純なことに向き合うことによって生まれる複雑よね。解決しようと思わず、とりあえず問題から回避することを考えよう。」

そう言って、果帆は、電車に極力乗らないことや、エレベターではなく階段やエスカレータを使うこと、 人混みを避けることを提案してくれた。

それ以来私は、その提案に乗っかることにした。

 

公園が近づき、冷たい風が吹いた。

公園の中で生い茂る紅葉の木から、真っ赤に染まった葉が空へと舞い上がった。

青く澄んだ空に駆け上る真っ赤な葉は、空の青さを一層引き立たせる。

 

 

橋をくぐって雨が降る《福岡県柳川市》

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「頭を下げて下さーーい。」

独特の語尾を伸ばす喋り方で、船頭さんが乗船客へ呼び掛ける。

何を言っているのか理解していなかった乗船客も、その橋が近づくにつれてその意味を理解する。目の前には、頭を下げて屈まなくては通れない程の低く狭い橋がかかっている。その下を、この舟で通るというのだ。

 

城跡を囲うお堀は、意外な程入り組んでおり、大小いくつもの橋が架かっている。今回のように屈まなければ通れない橋もあれば、立ち上がっても手が届かない高い橋もある。幅もそれぞれだ。舟と舟がすれ違うことが出来る広い橋や、一艇が通るのもギリギリな狭い橋まである。

 

お堀の両脇には緑の柳の木々が、風になびいている。

流れはなくとも、一定の距離が続くお堀はまるで川のように見え、なるほど、これが“柳川”と呼ばれる由来かと納得できた。

  

向かいには、まだ言葉を覚えたての子供が座っていた。彼女のお父さんは、頭を伏せることを身振り手振りで子供に教える。実際子供は、頭を伏せる必要のない程の背丈なのだが、何でも真似してやってみたい年頃なのだろう。両脇に座る両親と同じように深く大きく頭を下げた。

「どう?私ちゃんとできてる?」

と言わんばかりに、小さく屈みながらお父さんを見上げる。お父さんから指でグッドサインが出るとキャッキャと騒ぎ、小舟を小刻みに揺らす。

 

転職を繰り返し、30歳を迎える前に4度目になった。仕事が嫌になって辞めているわけではないが、「これだ!」といういわゆる「天職」と思える職でない気がし、その上、他職への興味が抑えきれずに転職するのがいつものパターンだ。

 

その間に周りの同級生たちは、会社内での実績と信頼を築き上げ、コツコツとキャリアを積み上げていた。羨ましく感じることもあれば、同じ環境でずっと居続けることを我慢しているようにも見え、嫉妬心はあまり生まれなかった。

 

転職の際には、仕事と仕事の間は少なくとも1ヶ月は空け旅行に出て、自分と向かい合う時間を作るようにしてる。

自分探しなんて大学生がやることで、三十路を迎えたおじさんは、自分の仕事や家庭に全力を注ぐやつが多い。一方で俺は何をやっているんだ、毎度の事ながら思う。

だから、“自分探し”などという言葉は使わず、あえて“自分と向き合う時間”などと言って、リフレッシュ感を出すようにしているが、実際は大学生時代にしていたことと何も変わっていない。

 

今回もその休暇中に、学生時代の友人である十条と柳川に来た。

 

「おい、頭ぶつけるぞ!」

と十条が言い終わらないうちに、柳の枝が勢い良く頭にぶつかってきた。

「いってえ。もっと早くから言えよ。」

頭についた柳の葉っぱを一つ一つ取る。くせ毛の俺の髪の毛には沢山引っかかった。

「お前がぼーっとしてるからだろ。」

と十条が言う。確かに前方など全く見ておらず、目の前の小さな子供を口を開きながら見ていたのが事実だ。

「うるせえ。だいたいアラサーの男が2人で来る場所かよ。」

「俺が営業で外出出来ることを良い事に、お前が誘ったんだろうが。」

「忘れたよ。そんな経緯。」

実際は忘れたわけではなかったが、学生の時からの友人と旅先で会えるなんて、またとないチャンスだと思って半ば無理やり、俺が十条を誘ったのだ。

 

十条の地元は北九州で、大学進学を機に東京に出てきた。学部が一緒でかつほとんどの授業が被っていたので、大学時代に1番一緒に時間を過ごした。

 

客観的に見れば奇妙な組み合わせだ。俺はジーパンにパーカー、方やスーツを着たサラリーマンの2人が柳川の川下りの舟に乗っているのだから。

 

「最近どうだ?」

北九州で働く十条に尋ねた。

「どうだも何も、前と一緒だよ。朝起きて午前中は外回り、午後は会社で事務仕事。」

「そうか、順調そうだな。」

「まあな、同じ会社の同じ部署に5年もいれば、多少のトラブルにも慣れてくるさ。一人で対処できない時に泣きつくことが出来る同僚や上司も出来た。何とかなるよ。俺なんかよりお前はどうなんだよ。」

十条に聞けば当然俺にも同じ質問が返ってくるだろうと思いながらも、自分のことを答える準備は何もしていなかった。

「いいよな、十条は。ちゃんとした仕事をちゃんとやっててさ。地に足が付いてるっていうか、模範的だよな、本当に。」

転職することを両親に伝える度に、地元の長野に返ってくるだろうと期待され、毎回その期待を裏切ってきた。十条は地元の企業に勤め実家暮らし。俺とは全く違う。

「嫌味を言ってるのか?」

と十条は言った。

「嫌味?そんなことないよ。安定だろうし両親も喜んでるだろ。」

と俺が言うと、十条は小さなため息をついた。

「確かにそうかもしれない。でも、俺みたいな奴って、蒼みたいな奴のこと羨ましいんだぜ?おい、前向け。今度は痛いじゃすまないぞ。」

目の前に迫ってくる低い橋に備え、二人で身を屈めた。

 

「頭を下げて下さーーい。」

船頭さんの声に合わせ、皆が身を屈め始めた。

目の前の女の子は、またキャッキャ言いながら必要以上に身を屈め、父親からのグッドサインを待った。しかし、彼女の父親は柳並木をカメラに収めることに夢中になっていた。

 

マズローの欲求のピラミッドで言うと、三つ目の段階「所属と愛の欲求」に当るだろうか。彼女が父親を見る目は鋭くそして脆く感じた。恒久的に存在しそうな熱い目線のようにも見えるか、すぐにプツンと消えてしまいそうな刹那的でもあった。彼女の「欲求」の詰まった目線は宙に浮き、俺はどうしてもそれを放置する事が出来なかった。

彼女の欲求を父親でない自分が満たせるかどうかは分からないが、一瞬彼女が父親から目を離した隙を狙って、グッドサインを彼女に出した。

彼女は困惑した表情を浮かべたが、すぐに恥ずかしそうに俺に微笑みかけた。父親が満たすことの出来るうちの何%を俺が満たすことが出来ただろうか。

 

俺は、一体どの段階にいるのだろうか。

四つ目の段階「承認欲求」の中の低次の「他者承認」から高次の「自己承認」の間をもがいている状態だろうか。もしくは、目の前の彼女と同じように、「所属と愛の欲求」に駆られているだけだろうか。誰かからのグッドサインが欲しいが為に、転職をしてコロコロと所属を変えているだけかもしれない。

 

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「蒼、あのさあ」

狭く低い橋をゆっくりと通り過ぎた後に、十条が再び話し始めた。

「前に聞いてきたろ、“それがお前のやりたい事か?天職か?”って。」

「前回の転職の時な。十条お前、答え出さずに泥酔したよな。」

「よく覚えてるな。実はあれからちょくちょく考えてたんだ。で、昨晩蒼に会うことはが決まって、また同じこと聞かれると思って考えたんだ。」

「聞くつもりなかったけど」

そんなことあったな。2回目の転職の時か。蒼自身がそんなことを聞いたことすら言われなければ思い出さなかった。

「だから、俺がこの話しをしてるんだ。」

「ああ、そう。」

用もないのにスマホをポケットから取り出した。

「答えとしては、天職かなぁと思うよ。」

十条はそう言った。スマホに何も通知が来ていないことを確かめ、再びジーパンのポケットにしまった。

「やっぱ、すごいな、お前。」

さらっとその単語を口にする十条がたまらなく羨ましく見えた。

「違うんだって。俺にはこれしかないんだ。今後もこの仕事を続けるしかないんだ。そういう意味で、天職って答えなきゃいけないし、天職にしていく必要があるんだ。」

「そう思えるだけですごいって。」

「すぐにそういうのやめろよ。蒼の悪いところだ。自分を卑下して相手をすぐに認めようとする。まずは自分のこと認めろよ。」

「すごいとか偉いとか、そうじゃないんだ。もっと俺に合う職業や職場、生活環境はもしかしたらあるかもしれない。けど、そうじゃないんだ。俺はここにいて、少なくとも必要とされている環境にいる。だから、それを全うしてるだけだ。蒼の生き方を否定するつもりは毛頭ないが、自分だけ最悪な状況にいるような、自分を卑下するスタンスだけはやめろ。」

「卑下なんかしてないさ。ただ、上を目指してるつもりなのに、届かないっていうかもっと遠くなってるような気がしてさ。低次から高次に、永遠にたどり着けない気がするんだ。おい、今度は十条お前が前を見ろ。」

熱くなっている十条は、前を見ることを忘れているようだった。2人はお互いの目を背けるように身を屈め橋の下を通る準備をした。

 

仕事の話なんてするつもりなかった 。でも、蒼自身から始めたのだから、仕方ない。

わざわざ十条に会いにきたのに、皮肉にも、橋の下で顔を合わせない時間がほっと出来る時間になっていた。

 

橋の下を過ぎ、皆が一斉に顔を上げた。

2人は、顔は上げたものの、互いの顔を見る事も会話を再開させることもなく、ただ目の前に過ぎていく景色を眺めていた。

 

「雨が降って参りましたーー。もうすぐ着きますので、少しスピードを上げまーーす。」

船頭さんはそう言って、舟を漕ぐスピードを少し上げた。

確かに、言われてみれば小雨が降っていることに気づく。パーカーとジーンズの俺に小雨なんて関係なかったが、スーツを着ている十条が気になった。しかし、完全に話し掛けるタイミングを失ってしまい、小雨に濡れるスーツを横目で見るだけだ。

 

「雨 雨 ふれふれ 母さんが 蛇の目でお迎え 嬉しいな」

 

十条が突然隣で歌い出した。

誰かに歌っている声量ではないが、俺にははっきりと聞こえる声量だ。

「おい、なんだよいきなり。」

 

「ぴちぴち ちゃぷちゃぷ らんらんらん」

 

十条は蒼の声が聞こえなかったかのように、歌い続けた。 

「恥ずかしいなよせよ。」

「蒼、知らないのか?白秋先生の代表先だぜ?」

北原白秋が柳川出身であることは知っていたが、この童謡が白秋先生の歌詞であることは知らなかった。

「もっと早く言えよ。逆に俺が恥ずかしいじゃねえか。」

「この状況にピッタリな歌だろ?」

「もっと降ってくれみたいな願望はないけどな。」

「そうか?もっと降ってくれたら、会社に帰る時間が遅くなる理由が出来る。」

「それならいいが。」

十条のスーツを心配して損をした気分になった。

 

舟が岸に着いた。

「皆様、足元に気をつけて降りて下さーーい。忘れ物はしないよう、お確かめ下さいねーー。」

岸に近いところに座っている人から順に舟を降りていく。小雨のせいか足早に降りて行く他の乗客を見送りながら、結局2人は最後に降りた。明るく振舞ってくれた船頭さんに軽く会釈をして、舟降り場を後にする。

 

「なあ蒼、マズローの欲求のピラミッド覚えてるか?」

「ちょうど橋の下で、考えてたところだ。」

「やっぱり。低次とか高次とか言い出すから、マズローしか思い浮かばなかったんだ。」

「さすが心理学部。」

「高校で習うさ。」

「そうか?」

「まぁ、考えていることがすぐに口に出るのは、お前のいいところだな。相手に伝わりやすい、こちらからしても分かりやすくて宜しい。」

「それを言う為に、マズローの名前出したの?」

「いや、違う違う。ピラミッドのことを考えてたら、蒼が5段目でなくその上に駆け上がろうとしているのが想像できた。」

「誰しも、そこに向かっているだろう。十条お前だって。」

「確かに、向かってるよ。もちろん向かってるさ。でも、蒼は一気に向かい過ぎている気がしてならないんだ。一段一段見ろよ。一気に駆け上がろうとするな。気がつくと、一番下に落ちるぞ。」

「偉そうに言うな。」

「確かに、悪かったな。忘れてくれて構わない。」 

十条の言う通りなのかもしれないが、素直に賛同することは出来なかった。

 

  

「蒼、この後どこ行くんだ?」

「決めてない。あと2週間あるからな。福岡に戻って新幹線で一気に鹿児島くらいまで行こうと思ったけど、せっかく柳川まで来たんだ。普通電車でゆっくり下るよ。」

「駅まで送るよ。」

「悪いな。」

「蒼、次、いつ会える?」

「十条お前気持ち悪いぞ、カップルみたいな事言うな。東京に来たらいいさ。」

「頑張って東京出張でも作るか。また、連絡する。」

「おう」

 

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フィリピンの産婦人科へ

少し体調が芳しくないので、フィリピンの医者に初めてかかってみた。

まぁ、貧血がけっこう酷いので、一度見てもらおうと思った次第です。

 

 

クリニックと呼ばれる建物に入り、予約しておいた産婦人科を探す。

 

1つのフロアに小さな部屋がいくつもあり、

それが皮膚科、内科、産婦人科、と分かれている。

 

診療、、、というよりかは世間話がほとんど。

その中で、どうしたの?何が問題なの?   という話をする。

 

日本の医者とに比べて格段に距離が近い。

 

日本の医者と世間話をするようなことはないし、

そもそも、医者の方から目的以外のことを聞いてくることなどほぼ無いだろう。

 

ここは、日本とフィリピンの大きな違いかな。

 

 

 

一通り話をして、血液検査をすることに。

 

ヘモグロビンの数値は平均よりも低かったものの、

心配するほどではなかったので一安心。

 

とりあえず、鉄剤を処方してもらいました。

 

他の項目で、数値が高いのがあったが、

それには触れていなかったので大丈夫ということなのだろう。

 

「また、二ヶ月後に経過を見せににて〜」

とのことなので、また来ます。

 

 

ちなみに気になるお値段。

血液検査がp140で、診察がp22でした。

 

安い!!!!!!

 

欲望の葛藤

誰かの為ではなく、求められたからでなく、

自分の為に、感情の通りに踊りたい

 

無我夢中というわけでは、ないが

 

かすれた歌声に癒される

もうすぐ出なくなってしまうような、かすれた歌声に癒される

 

綺麗な声や物語はいらない

 

少しひねくれて、ハッピーエンドなんかじゃなくていいのだ

 

他人なんて全くもって他人

価値観を比べるだけ無駄で、他人の価値観に対してどうこう言うなんてもってのほか

馬鹿げてる

 

みんな、自分の価値観に従って生きればいい

 

周りにも分かってほしいのであれば、それをどうにかして伝えるべきである

 

馬鹿げたことに時間と労力は使いたくないなんて、

普通のことだ。

立ち尽くす

水中で「立ち尽くす」という表現があっているのか分からないが、つまりは立ち尽くすかのようにその光景の前で動けなくなってしまったのだ

 

水中ガイドという仕事を、忘れる程であった

 

自分が目にしている風景が間違いであることを祈り、気を取り戻して少し泳ぎまわってみた

 

しかし、私が知っている景色を見つけることは出来なかった

 

どこかに行ってしまった、のではなく、消えたしまったという事実は、私の目だけでは理解し難かった

 

本当は、私が見つけられていないだけで、どこかにまだ存在するのだと、心の底ではそう願っていたのだ

 

 

 

水中で泣いたのは初めてではなかった

 

しかし、水中ガイドを初めてからは初めてのことだった

 

目頭が熱くなるのと同時に、胸の鼓動は大きくなり、呼吸も早くなった

 

普段エア持ちのいい私の肺が、急激にタンクからのエアを求めているのが分かった

 

ダイブコンピューターは、深度5mを示していた

 

だが、水深30mを超える深度で自分を失わないようにかつ身体を落ち着かせるかのようにコントロールすることを努めたが、それでも私の身体は、エアをいつも以上に沢山消費し続けた

 

これ以上ここにいては危険だと判断した

 

自身のコントロールが出来ないガイドが、グループ全体をコントロール出来る訳がないのだ

 

2週間前とは打って変わった珊瑚のガレ山を、後にする決心をし、流れに沿って泳ぎ進めた

 

綺麗な景色より、簡単に脳裏に刻むことができたのは、それほど私にとってショックでありインパクトのある光景だったからだろう