桜前線の途中
単純なことを単純に受け入れられず、複雑化させていくことで心の中の渦はどんどん深くなっていく。
底が見えないのドロップオフの海のよう。底が見えればと思う裏腹、見たくない気持ちが勝り、目を凝らせば見えそうな海底の地形を見ようとさえしたことはない。
大きく覆いかぶさる波を正面で受けるが、踏ん張る力はなく幾度となく倒れこむ。差し出される手を横目に、鋭い岩に手のひらをつき立ち上がろうとし、また傷の数が増えていく。
トンネルばかりの車窓に、所々桜が映し出される。いつまで経っても春は終わらない。桜前線に沿って帰宅する私にとって、春は人より長いのだ。
最寄りの駅で電車を降りる。もうすぐGWだというのに、まだまだ肌寒い。
お母さんが乗った緑の軽自動車が徐々にスピードを落とし、目の前で止まった。車が完全に止まる前に助手席のドアを開く。
「沙優(さゆ)ちゃん、おかえりなさい。」
「ただいま。寒いから暖房つけてよ。凍え死にそう。」
「この位の寒さでは死にません。すぐに着くわ。帰ってご飯にしましょう。」
お母さんは暖房をつけてくれなかった。第一、私だってそこまで寒くない。ただ、何か言いたいだけなのだ。そういうお年頃なのだ。
「川沿いの桜、少しずつ咲いてきたよ。そろそろ五分咲き位かな?週末の部活帰りにでもお花見しようか。きっと八分咲き位にはなるんじゃないかな。天気も良さそうだし、昼間のうちに、ね?」
“川沿いの桜”とは、家から徒歩五分程で着く川辺の桜を指す。八分咲きより五分咲きの方が、昼間の桜よりも夜桜の方が好きだと、何度言えば分かるのだろう。
「却下。部活後は疲れてるので。但し、今夜であれば行ってあげても良いよ。」
「ご飯食べて身体しっかり暖めてから行こうか。ちょっと遅くなるけどお父さんも誘う?」
「却下。」
「はいはい。」
駅前の大通りを過ぎ、家に向かう小道へと入る為に、車が大きく右カーブした。リュックの中の大量の教科書が左にずれていくのを、太ももで感じた。
「高校の近くの桜は?もう散ってるの?」
「ほぼね。昨日雨が降ったでしょ?それでだいぶ散った。雨で出来た水溜りに、散った桜が浮かんでるんだけど、全然綺麗じゃないの。木に付いている時はあんなにピンクで綺麗なのに。何でか知ってる?」
「何でだろうね。一箇所にまとまって重なり合わないと、綺麗に見えないのかもね。」
「沙優には、もうピークは終わりですって、言われてるような気がして。」
「もしくは、来年の準備に入っているのかも。」
車庫に入れる為にスピードが徐々に落ちていく。運転したことがないから分からないが、うちの車庫は随分入れにくそうに見える。
「一度落ちた桜の花はもう咲きません。」
やっとのことで、車が車庫に入った。車が車庫に入り始める頃から、私の左手はドアの取っ手にある。準備が整うのを待てず、すぐに行動に移してしまうのは小さい頃からの癖だ。待てないのだ。
家に入り、階段を駆け上がり自分の部屋のドアを乱暴に開けた。ベッドの上にリュックから出した教科書やノートを無造作に広げた。夕飯までまだ少し時間があるので、宿題を進めることにした。
世界史の時間に配布されたプリントには、中世東ヨーロッパに関する問題が二十問印字されている。
『当時の時代背景とを考え、人々の気持ちを想像しながら回答しなさい』といういらない但し書きと一緒に。
ビザンツ帝国、コンスタンティノープル、レオン3世、オスマン帝国、コンスタンティヌス11世、メフメト2世、どうしたらカタカナだらけの彼らの気持ちを想像することが出来るのだろうか。
歴史の資料集をペラペラとめくり、該当箇所を見つけ回答した。明日の授業であてられても良いように、付箋も忘れずに付けておいた。リュックから出し無造作に置いた大量の教科書は、ベッドの上で崩れていた。必要最低限のものを持ち帰っているつもりなのだが、結局使う教科書や資料集は半分以下だ。毎日のようにこの要領の悪さにイラつきながも、今日ならきっと出来る!という自分への期待を捨てきれず、大量に持ち帰ってきてしまう。
「沙優ちゃん、そろそろご飯準備出来るよ。」
「分かってるー。」
二階の自分の部屋から、お母さんに聞こえるか聞こえないかの声量で返事をする。世界史の二十問は終わったが、国語の宿題がまだ残っていた。解く気がないながらに一応プリントを開いてみた。梶井基次郎の『檸檬』が印字されていた。
問1、線aの時の「私」の気持ちとは。
中世ヨーロッパに心を馳せた次は、昭和時代の誰かも知らぬ「私」か。平成の現代を生きる女子高生には、この移り変わりはあまりにも乱雑に感じられ、ついていく事が出来なかった。まぁ、国語の授業は明後日だし、明日やればいいだろう。コンスタンティヌス11世の本人かも危うい肖像画が頭から離れぬまま、階段を駆け下りリビングへ向かった。
夕食はシチューだった。
「いただきます。」
と、食事の準備ができる前から、私の夕飯は始まる。待てないのだ。フランスパンの耳の部分をシチューにつける。パンから滴り落ちるシチューを舌でキャッチするようにして食べた。
「スプーンとお皿を使いなさい。」
当然の事ながら、お行儀の悪いこの食べ方をお母さんは好まない。
「洗い物をを増やさないという、娘の気遣いです。」
もうひとすくいしたシチューは、舌の上に落ちることなく制服のスカートの上に落ちた。
「だから言ったじゃない。」
お母さんは小さくため息をつき、濡れた布巾をキッチンから持ってきた。
「お母さんが話しかけるから。」
私はもう一度、パンをシチューに浸した。
「このスカート、ちょうど洗濯に出そうと思ってたから、その思いがシチューに通じたんだと思いまーす。」
「はいはい。」
お母さんが落ち着いて食べ始める頃、私は既に食べ終わっていた。
食堂のテーブルから見えるテレビが、7時のニュースを始めたので、リビングのソファに移った。7時のニュースでは就職率の低下、就職後3年以内の離職率の上昇に関し、キャスターが持論を述べていた。なんでも、自分のやりたいことと、仕事内容の一致が難しい時代らしい。
「仕事があることに対する感謝よりも、自己満足の方が大切なのですね。今の若者にとっては。」
「想像していた仕事と違った、なんて、就活時の調査不足でしょう。それにすぐにやりたいことがすぐ出来るなんて、そんな虫の良い話滅多にないですよ。」等と、言いたい放題だ。
小学生の頃から「自分」や「個性」や「アイデンティティ」を重んじろと言われてきた。学校は、確固とした答えを教える代わりに「自分で考えなさい」と言い、最終的には「答えは皆違う」と丸投げしてきた。そのわりに社会に出た瞬間自分の物差しで価値を計り始めると批判されるのか。そりゃないぜ、とスルメイカを噛み砕き麦茶を一気飲みした。
そういや、志望学部と希望大学の提出は今週末が締め切りだ。“志望”という記載はあるが、得意分野が受験項目にある学科で学部をが決まり、成績と偏差値で大学が決まるようなもので、実際“志望”要素などどこにもない。
保護者の記入欄もあったけな。まぁ、木曜日辺りにお母さんに渡して書いてもらえば良いか。
お母さんの夕食がそろそろ終わりそうなので、テレビを消したリモコンをソファに放り投げ、お花見の為に制服から着替える事にした。 夜とは言え、近所であることには変わり無い。同級生に会う可能性だってあるのだ。スカートを履くか、ジーンズで行くか、スニーカーかショートブーツか、悩みに悩む。
悩み抜いた結果、スキニージーンズとショートブーツで行くことに決めた。上着は、茶色の薄手のジャンバーにした。
「お母さーん、早く行こうよ。」
玄関の前で呼んだ。
「エプロン外したら行くから。」
「良いですね、準備が簡単で。」
ジャンパーのボタンをつけ間違えていることに気づき、玄関の鏡を見ながら直す。
「川沿いに行くだけよ?コンビニ行くよりも誰かに会う確率少ないじゃない。」
「確率の問題ではないの。可能性が有るか無いかの問題なの。分かる?」
「はいはい」
お母さんの「はいはい」が出た時は、これ以上その話題をしても無駄というサインだ。
夕飯の洗い物が終わり、お母さんがエプロンを外した。出発する準備が整ったということだ。
玄関を出るなり、ひやっとした空気が二人を包む。
「さむ。」
思わず声が出てしまった。
「ジャケット変えて来たら?」
玄関のドアの鍵をかける手を一度止めて、お母さんが聞いた。
「さむ、って言ってみただけ。」
私は、ジャケットのファスナーを首の上までしっかり上げ、ポケットに手を突っ込んだ。
毎年思うのだが、この寒い中よく桜も咲く気になるな、と。もし私が桜だったら、もう少し咲のを待つ。長野であれば、GW明け位がちょうどいいだろう。昼間開いたのを夜になっても後悔しないくらいの気温にはなる。
しかし、物事というのは準備万端になる前に訪れるもので、桜も例外ではないのだろう。そもそも、準備万端を待っていたら一生咲き時など来ない気もしてきた。
「あ、ケータイ忘れた。」
お母さんの足が一瞬玄関の方を向いた。
「いいよお母さん、どうせ誰からも連絡も来ないし、大した写真も撮れないんだから。」
「そうね。」
そう、準備万端なんかじゃなくても、どうにかなるもんだ。
川辺へと続く道に曲がる交差点の街灯が、チカチカと点滅している。そういえば、一昨日からこの状態だ。誰かが電灯を変えない限り、近々ブラッアウトするだろう。しかし、そんなことは私には関係がないし、この街灯がなくなっても大して困る事はない。
夜空には珍しく満点の星が広がっていた。北斗七星がひときわ目立ち、輝いていた。
「お母さん4月生まれだから、牡牛座だよね。どこにあるんだろう。わかる?」
4月から5月にかけての星座である牡牛座を探しながら上を見上げた。
「ちょうど地球の反対側かしらね。」
「え?春の星座なのに見えないの?」
「やだ沙優ちゃん、その時に見える星で星座が決まっていると思っているの?」
「違うの?」
お母さんの方を向いた。お母さんはたまに見せるドヤ顔で説明しだした。
「生まれた時に、太陽がどの星座の方向にあるかを基準として誕生時の星座が決まっているの。だから、その時期に見えやすい星座で決めたわけではないわ。むしろその星座は見えないわね。」
牡牛座を探すのを辞めた。
「第一沙優ちゃん、牡牛座の形知ってるの?」
「知らないけど、見れば分かるかなって。牛みたいな形してるんでしょ?」
「正解。」
「お母さんは分かるの?」
「分かるわよ。秋や冬によく見える星座でオリオン座の近くにあるのよ。オリオン座の三ツ星から西の方に辿っていくと、小さいV字の星たちがあるの。それが、牛の角の部分よ。冬になったら一緒に見ようか。沙優の部屋から見えるはずよ。」
「なんでそんなこと知ってるの?」
「若い頃にお父さんから教えてもらったの。」
「デート中?気持ち悪っ。」
私の言葉を無視するかのように、お母さんは話を続けた。
「皮肉な話だと思わない?太陽の一番近くにいて輝けそうなものなのに、見えないなんて。暗闇の方がより輝いて見えるのよ。太陽に近づきすぎちゃいけないってことよ。」
「意味わかんない。」
太陽から一番離れて輝く、北斗七星を見上げながら歩いた。
「沙優ちゃん、前見て歩きなさい。転ぶわよ。」
「はーい。」
お母さんの言う“皮肉”という言葉はよく分からないが、今見えているもの全てが正しく見え、そして全てを疑いたくなるような気がした。真実ではなくて、正しいことを望もうとするあまり、自分本位になりすぎているのではないかと、慌ててブレーキをかける。
太陽の一番近くにいる牡牛座は誰も見ていない空でどんな風に輝いているのだろう。もう一度、一瞬だけ、北斗七星を見上げた。
路地を抜け、川辺に着いた。
煌々光る桜のライトアップと反比例するように、花見の人は一人もいなかった。二人だけの為に設置されたライトアップのように思え、気分がよかった。
「湖の方まで歩こうか。」
「はーい。」
一歩先を進むお母さんに追いつくように、小走りで川辺を進んだ。私だけ持ってきたスマホで夜桜を撮る。
「夜桜は難しいのよ。心に刻みなさい。」
お母さんのこの言葉、去年も聞いた気がする。いや、確かに聞いた。
毎年決まって見に来る夜桜は、一年の成長と停滞を考えさせられた。
高校2年から3年というのは、制服が変わるわけでもなく、後輩から先輩になるわけでもなく、数字の2から3に変わるだけであって、顕著な変化を探すのが難しかった。クラスも同じ、友達も同じ、1年前と目標も同じ。本来であれば着実に目標に近づいているべきなのに、今年は遠のいて感じた。
時系列に沿って物事を考える事で、物事を整理しているはずなのにそれが出来ない。過去と現在と未来を考える毎に、頭がパンクしそうになる。夜桜を見る前からこの支離滅裂とした感覚は始まっており、去年と何ら変わらない夜桜を見ることで、余計にその感覚が膨張を続けた。
教科書で読むこと、テレビで聞くこと、人から聞くことで、過去と現実と未来が激しく交差し、処理が追いつかない。
“主人公に心を傾けて”“その時代にいるつもりになって”“現実から目を背けないで”“将来のことを考えて”
どこにフォーカスを当てたらいいのよ。考えさせないで、テストみたいに答えを決めてくれればいいのに。已に大人になったあなた立ちは一体どう乗り越えたのよ。。
身勝手で言いたい放題の大人たちへ、恨みという名の嫉妬が募る。
桜前線が山梨から長野へと徐々に移り変わっていくのに、私はずっとそれを追い続けているだけなのだ。待ち望んでいた季節がすぐに終わってしまうのなら、いっそ来なくてもいい。満開の桜をまぶたの裏に浮かべ、素早く目を見開く。目の前にはまだ五分咲きの桜が広がっており、若干ではあるが安堵感をもたらした。
「お母さん、もう帰ろう。」
湖までの道はまだ半分も来ていない。
「全然咲いてないし。このブーツ、ちょっと足に合わないみたいだし。」
お母さんは「え?」と振り返った。
「もう少し歩こうよ。せっかく来たんだし。」
そう、せっかく来たのだ。私の一番好きな咲き具合の時に、私の一番好きな時間に。だからこそ、置いてけぼりの自分に虚しさが募るのだ。
「足が痛くなったら、おんぶしてあげるから。もう少し歩こう。せっかく来たんだから。」
お母さんは、“せっかく来たんだから”というフレーズを繰り返した。
そんなこと、2回も言われなくても分かってる。
そして立ち止まる気配を見せずに、お母さんは私の前を歩き続けた。
「お母さん。」
一歩後ろから、呼び掛けた。
「もう、おんぶしてほしいの?」
「おんぶなんて出来ないくせに。」
「沙優ちゃん、最近太ったもんね。」
「うるさい」
少し前を歩くお母さんに追いつく為、小走りをした。
「お母さんは、どんな高校生だったの?当時の将来の夢は?その頃に戻りたいと思う?」
隣を歩き、お母さんの顔を覗き込みながら聞いた。
「そうね。沙優ちゃんみたいな可愛い高校生で、沙優ちゃんみたいな子の親になりたくて、でも、沙優ちゃんがいるこの時代から、沙優ちゃんがいない過去に戻りたいって思った事はないわ。」
むっとして、お母さんを睨みつけた。
「ねえ、真剣に答えてよ。」
「真剣よ。」
「お母さん前に、図書館の先生になりたいって言ってたもん。親になっちゃったから、図書館の先生を諦めたんでしょ?現実を正当化するような事言わないでよ。」
「司書になりたかったのも本当だし、親になって諦めた事なんて一つもない。司書に関して言えば、今だってなりたいわ。それに、正当化もしてない。」
一瞬強い風が吹き、五分咲きの桜の枝を小刻みに揺らした。
「自分のやりたい事を叶えられる人は一握りって高校の先生が言ってたもん。志望校にだって、行ける人は限られてるって。お母さんはその幸せな一握りなの?精一杯やれば後悔もないしそれがその人にとってもベストなんだって先生言ってたけど・・・でも、私はそんな風に《結果これでよかった》なんて無理矢理現実を正当化したくないの。なのに、成績だけじゃなくて、最近感情までここにあらずっていうか、追いついていけなくて。もうぐちゃぐちゃで。」
これ以上言ったら何故か涙が出てきそうだった。
「無理矢理正当化なんて、してないよ。心底これで良かったと思ってる。もし沙優ちゃんが今後、何か上手くいなかったとして、その事実を無理矢理正当化するようなことがあったら、そん事実放り投げてまたチャレンジすれば良いじゃない。」
「チャレンジって、そんな簡単に。」
「簡単ではないけど、意外と可能よ?親だからとか、大人だからとか、そんな目線で言ってるんじゃないけどね、今の沙優にとってはすごく重要なことでも、いつか振り返るとそうでも無かったと思う日が来るのよ。」
「お母さんにとっては、どうでも良いかもしれないけど。」
「どうでも良いなんて思ってない。一つ一つすごく重要よ。でも、たいていのことが挽回可能っていうか、どうにでもなるんだってこと。」
まだ五部咲きの桜の木から、一枚の花びらが風にのって空高く散った。その一枚の花びらを、私は見えなくなるまで目で追った。
「一つ一つ向き合って、自分なりの答えを出すの。違ったらまた変えればいい。そんな沙優ちゃんを見るのが、楽しくて仕方ないわ。必要なら、いつでも手を貸すわ。」
お母さんは、私の頭に手をあてた。少し背伸びをしながら。二人だけの為に設置されたライトアップはお母さんの顔を照らし出し、染め忘れている白髪の存在感が増した。
「お母さんって、たまに偉そうなこと言うのね。たかが三十年多く生きてるだけで。世界史の中で三十年なんて一瞬なんだから。ビザンツ帝国なんて八百年続いたのよ?」
「すごいところと比較するわね。そうなの、たかが三十年よ。沙優ちゃん見てると、三十年経っても、高校生が持つ悩みってそう変わらないんだなって思うのよ。」
お母さんは急に肩を寄せてきた。冷え切った身体に温もりが触れた。お母さんの髪の毛からはお母さんのシャンプーの匂いがした。中学までは同じシャンプーを使っていたが、今は違うシャンプーを使っている。昔と変わらない懐かしい匂いだ。
「お母さんも、同じような悩みあったの?」
少し恥ずかしくなり、お母さんから離れた。離れてもなお、お母さんの温もりは肩に残っていた。
「私が高校生の時?沙優ちゃんみたいに優秀じゃなかったから、そんなに難しく考えることは出来なかったけど、いくらでもあったわ。」
「例えばどんな?」
「朝起きて前髪が少し跳ねていること、制服の丈が少し短いこと、人より毛深いこと、左目だけたまに一重になること。」
「分かる!」と同意しそうになったが、何となく悔しくて、なるべく興味がなさそうに「ふーん」と言った。なるべく興味がなさそうに。
「今は?一応、親としての悩みもあるわけ?もう私高校生だし、ある程度の事は自分で出来るし、来年の今頃には家を出て自分で生活している予定だけど。まぁ、あくまで予定だけど。」
なるべき目を合わせないように聞いた。こんな娘を持って悩みがないわけない。わがままだし、口が悪いし、成績も落ちているし、お父さんとも最近口をきかないし。
母親に悩みを聞くなんて!聞いてから後悔し、余計に目を合わせられなくなった。
「まだまだだなぁと思って。沙優ちゃんにとって良い親って何だろうって、毎日考えながら過ごしてる。」
お母さんは静かな声で答えた。
お母さんの口からネガティブな言葉を聞くのは苦手だった。私にとって母親とは、絶対的に強く優しく決して裏切らない、常にポジティブな存在であった。迷ったり弱音を吐く母親の姿は、私が思ってきた母親という偶像を一気に叩き崩すような衝撃に値する為、目をつむって見ないようにしてきたのだ。
しかし、お花見という二人しかいない空間で、騒音もなく、外部からの邪魔が全くな状況での目の背け方を私は知らなかった。
唯一の桜という存在も、どの花もそっぽを向いて助け舟を出してくれなかった。二人きりにしたその環境は、母親を初めて対等な人間として接させた気がした。
沈黙に耐えられなくなり、私は口を開いた。
「私にとって良い親は、黙って汚れた制服を洗ってくれる親。」
「あら、意外と簡単なのね。今回は自分で洗ってもらおうと思ったけど。」
「いえ、お断りします。専業主婦の仕事を全うしてもらいます。」
お母さんと私は、同じペースで歩き始めた。湖まで辿り着いたところで、引き返し始めた。同じペースで、むしろ私がお母さんにペースを合わせながら、それまで歩いてきた川辺を引き返し、歩き続けた。
5部咲きの桜はいつでも見ていられる。この先、咲き乱れる桜を想像することも出来るし、散りゆく桜を目で追う必要もない。落ち着いて見ていられるこの5部咲きの桜が一番好きなのだ。すでに開いている花、まだ蕾の花、今にも開きそうな蕾。多様な桜を見つめるのが好きなの。
川辺があと数歩で終わるところで足を止め、パンパンに膨らんだ蕾をじーっと見つめた。
「お母さん、これあとどれくらいで咲くかなあ。今夜中には咲きそうじゃない?今夜はここで咲くまで見てようかな。」
「風邪ひくからダメです。そして、沙優ちゃん、咲く前に飽きるわ。」
「英単語でも覚えながら辛抱強く待つもん。」
「あらそれはいい考えね。」
と言いながら、二人の足は既に帰路に向かっていた。週末にはもうこの川辺の桜たちも満開になり、この桜道も観光客でいっぱいになるのだろう。暖かい日が続けば、来週の今頃には散り始めるかもしれない。そして、また誰もいない川辺に戻る。満開の桜、観光客のピークが過ぎた頃に再来できるような大人になりたい。
「どうせ散るなら、このままで良いのにね。」
私は、お母さんがかけているスカーフ首からを外して言った。お母さんは寒そうに首を竦めた。お母さんの体温で温まったスカーフは私の首を温めた。
「ずっと蕾なのも可哀そうじゃない。あれ?今夜、咲くのを見守るのはやめたの?」
「お母さんに心配かけないという親孝行を選択しましたぁ。」
「そうですか。それは、それは。」
川辺を降り、線路沿いの一般道を歩き始めた。コンクリートの上では、春先に買ってもらったショートブーツのカツカツという音が良く響いた。
「沙優ちゃんさ」
「なに?」
お母さんの方を向いたその時、一時間に一本の電車が近づく音がした。近づくにつれて、ゴトンゴトンという音は大きくなっていき、お母さんの声を打ち消した。何を言っているかを察する前に、お母さんの口の動きは止まり、笑顔に変わった。電車が通り過ぎた後には、お母さんの笑い声だけが残った。
何を言ったのかは、聞かなかった。
いつからだろう。沙優の歩くペースの方が早いと感じ始めたのは。背を抜かされた中学3年生くらいからだろうか。
「お母さん、歩くの遅いから先に帰ってるね。」
ポニーテールの頭が私目の前に現れ、歩く度にその髪は揺れた。見覚えのない髪飾りがちらりと見える。
そうか、前より一緒に買い物に行くことも減ったことに気付く。
「気をつけてね。」
少し張って出した声は、沙優に届いただろうか。せっかちで気が強くて意地っ張りで、私の前では一段とわがままだ。そんな沙優の前を、“大人だから”“親だから”と少し前を歩く習慣もその為の早足も、最近はしなくなった。左右に揺れるその髪を、静かに目で追った。
当たり前のように毎年見るこの夜桜も、今年が最後かもしれないと考えるだけで胸が苦しくなった。一定の時の流れを受け入れられず、無理矢理にでも変化を作ってしまうのは私のほうなのだ。沙優はいつだって、華麗に荒波に飲み込まれる。避け方も乗り方も知らないはずなのに。
必要以上に大きく腕を振りながら歩く姿は、昔から変わらない。路地に続く曲がり角で沙優の身体がぐらりと傾いた。心臓がどきっとし、とっさに駆け出そうとしたが、そんな必要などなかったみたいだ。沙優は私に振り向きもせずに、両手で大きな丸を作り暗闇に消えていった。
路地へと曲がる交差点の街灯は、消えていた。